「ハンアンギャラリー」展における
韓国文化院の作品展示不許可についての報告
2006年8月6日 金暎淑
2006年7月25日からの五日間、東京の韓国領事館内・韓国文化院ギャラリーで開催された、韓国と在日コリアンアーティストによるグループ展「ハンアンギャラリー」で、韓国の作家・高慶日(風刺漫画家)と在日の作家・金暎淑の作品(短編映画)が、文化院の判断により展示禁止となる事件がありました。
このグループ展は、私が企画し、2005年後半に募集をしていた2006年度の文化院ギャラリー使用申し込み規定に沿って応募し、文化院の審査を受け、この7月に開催が決まったものです。
しかし展示会オープンの前日(7月24日)の搬入時、作品を見た文化院長の柳氏により、
作品が文化院の目的にそぐわないとし、展示は許可できないと一方的に伝えられました。
私たちは何度か交渉を重ねましたが、最終的に院長より方針は変わらないとの返答を受け、展示会は作品が撤去されたままオープンを迎えることとなりました。
結果、この事実を韓国のマスコミ(ハンギョレ新聞やオーマイニュース等)各誌が重大な問題と受け止め報道したことで文化院や私たち作家側には多くの取材が求められました。
事の大きさに、途中、文化院側から方針を変えたという連絡を受けますが、高氏と私が二人で院長を訪問し、いくつかの作品を除いてなら展示を許可するとの通達を受けなければならないとし、私たちが院長の訪問を拒否した結果、最後まで作品は展示されないまま終了いたしました。
下に経緯を記載します。
・2005年
9月末 「ハンアンギャラリー」展示企画書と参加作家11名の作品資料をまとめ
文化院利用申し込み手続きを行う
10月 ギャラリー使用の許可が下りる
*2005年10月~2006年7月の搬入日まで、ハンアンギャラリー企画者・金英淑と文化院担当者・朴氏の間にはメールや電話などによる質疑や事務的連絡が密に行われていた。
この間の事務的連絡の中に、「展示作品の開示要請があったにもかかわらず、ハンアンギャラリー担当者が作品内容を提示しなかったため今回の騒動が起きた」と文化院側は声明文を発表している。
しかし作品の内容として出品者名、作品の点数とジャンル等を返答済みであり、それ以上の要請は受けていない。
・2006年7月24日
午前10時頃 イ・ユンボク 高慶日 金暎淑 河専南 の4名で搬入開始
午後1時頃 展示会場を訪問した韓国文化院長は作品に一通り目を通した後、高氏の作品について展示するのにふさわしくないと担当者に指摘
午後4時頃 金英淑の映像作品「カフェGは告発する」を別室で鑑賞し、「タイトルのGは何の意味なのか?」という質問に対し「光州事件」ですとの私の返答と、本編に含まれる約3秒程の光州事件の映像部分に問題があると指摘
午後5時半頃 2回にかけて2名の作品展示の不許可という通達を受け、直接面談し交渉を要請したが解答なし
午後6時頃 文化院長退勤のため面談は無理との返答
・7月25日
午前10時 文化院長に面談を要請するが返答なし
午前10時30分 文化院の担当者3名との話し合いで再度展示の許可を求め、院長への面談を要請
午後1時30分 文化院長と面談(高慶日 金英淑)
文化院長のコメント:韓国文化院は韓国の優秀な文化を広く伝える
国家機関。
国家のイメージアップと国家の利益の為に存在する。
二人の作品は作品性に問題はないが本機関にはそぐわない。
午後6時 レセプションスタート
午後6時50分頃 事前に上映会開催の告知を行っていたため、レセプションに集まった観覧者に対する対処として現場の文化院スタッフによる判断で、一回の上映を行う
・7月29日 午前 イ・ユンボク、高慶日、金英淑、河専南の4名の連名で、この件に関する声明文を発表
・7月29日午後1時頃 院長から面談の要請
院長の話の概要
「今回の展示禁止の原因は、文化院側から展示作品の提示の要請があったのに、ハンアンギャラリー実行委員の担当者(金)がそれに応えなかったこと、事前の作品のチェックに応じなかったことにある。
そして、展示できなかった高氏や金氏の傷は大きかったであろうが、それにも増して文化院の受ける傷が大きかった。(韓国でのマスコミ報道による結果と思われる)
しかし展示を許可する事は到底できない作品であることを再度申し上げたい。
今回はこのような問題があったが、今後も文化活動には援助を惜しまないのでこれから展示などする際には協力を惜しまない」
以上
このような事態を体験し、私の表現に対する思いは様々な方向へと拡大しました。
まずはこの時代に、芸術という枠の中で未だ表現の規制が存在する事への驚き。
たとえそれが政府機関という場所に置いての規制だとはいえ、「真の文化交流」といった大義名分を掲げるならば、政治の一手段ではなく政治外交とは「違う役割」を担う部分として「文化交流」が存在するべきではないか?
しかし、アートが政治の手段として利用されることへの憤りとともに、それだけアートがもつ力の大きさを実感するきっかけともなりました。
その力を政治家が認識し、作家が認識できないようではいけないと、自身への反省と課題が生まれたのも確かです。
また、私の作品について述べると、光州事件の本質にある抑圧に対する抵抗精神は、自由を獲得したいという人間の普遍的な問題であり、現代の生活の至る所に同じ問題があるという光州事件の発する警句を映像化したものです。
今回奇しくもこのような出来事が起き、私の作品がまるでこの出来事を描いたような感覚を得たのは偶然ではなく、やはり「光州」は私たちの問題なのだと再確認した次第です。
そして最後に、政治に統制される一員として、政府の機関なら規制があっても仕方がないと思い受け流すことは、統制に対する受け入れであり、それを助長する事につながる危険性を孕んでいること、その統制がもしも自分自身の問題に及んだとしたら、どうでしょうか?
この問題を多くの方々が考えてくださることを切に願います。